舞台裏

撮影してきました!ー動画撮影の舞台裏ー

2022年5月30日

マルモの舞台裏をお読みくださっている皆さま、初めまして。
営業部の保元と申します。
私は照明を学ぶ専門学校を卒業し昨年度(21年度)入社し、
この春であっという間に1年が経ってしまいました。
入社して少し経った頃、新製品の紹介や丸茂製品の使い方について
ホームページに掲載する動画を作成するチームに入りました。

今日はその動画チームの取り組みについてお話ししたいと思います!

動画チームは山梨工場を含む全国の営業所から集まった8名で構成されています。
今回の撮影は東京の本社と技術センターのメンバーが中心となり行いました。
山梨工場のメンバーには絵コンテ作成、また対象の製品について詳しく教えてもらい、
各営業所のメンバーにはナレーションの原稿を作成してもらうなど、
全員で力を合わせ取り組んでまいりました。

今回撮影を行ったのは、先ごろモデルチェンジを行ったDMX制御の小型調光操作卓『EST2』 です。
それでは撮影現場の様子を皆様にご紹介いたしますね!

ここは、東京都大田区の当社技術センターのスタジオです。
今回はこの場所で撮影を行いました。

撮影をするにあたってまずは機材の準備から。

使用した機材はLEF2-6MH-6CB、LEF-2M-CW、LEF-4M-CWなどです。
これらは実際に操作卓で操作した時に明かりの出方を見やすくしたり、
EST2本体を照らすライトとして使いました。

そして、動画の撮影で、とても大事なことがシーンの割り振りです。
シーンの割り振りは山梨工場のメンバーが作成した絵コンテをもとに、
本社チームでもどのようにしたらわかりやすく伝えられるか話し合いを行いました。
話し合いを重ね、いざ撮影へ。

撮った動画はみんなで確認し、より伝わりやすいようこだわりをもって何度か撮影しました。

撮影は順調に進み無事終了。
撮影が終わった後は、ナレーションを撮り、動画の編集を行いEST2の製品紹介動画の完成です。

今回初めて動画撮影に関わることで、製品をつくり販売するだけではなく、
製品を広く知っていただくことも大切だということを知りました。
また、動画を撮影するということは製品の特長を良く知らないとできないことでもあるなと痛感しました。

動画は本社メンバーが編集したり、ナレーションの声を担当したり。
私はフェーダを上げ下げする役で出演するなど、一から自分たちで制作していくのはとても面白かったです。
このような工程を経て完成した

「小型調光操作卓EST2 製品紹介」の動画は こちらからご覧いただけます! 

今後もこのような製品の特長・使い方の動画を作成予定です。
どうぞご期待ください!
最後まで読んでいただきましてありがとうございます。

営業部 保元でした。

舞台照明という仕事

2021年5月25日

この記事をお読みになる皆様、こんにちは。

エンタメ業界の皆様、おはようございます。

建設業界の皆様、いつもお世話になっております。

この度は当社ホームページをご覧いただき、ありがとうございます。

今回、こちらで記事を書く機会を頂きましたので、「舞台照明という仕事」という題目で記事を書かせて頂きます。

まずは、簡単に自己紹介をさせてください。

丸茂電機 営業部営業課の勝と申します。酉年のみずがめ座です。

私は中途採用という形で丸茂電機に入社致しました。

入社する以前は、舞台照明会社で舞台の照明の裏方として働いていました。

「劇場で働く仕事」から、「劇場を創る仕事」へ転職したのです。

高校卒業後は芸術系の大学で「劇場で学ぶ学生」でしたから、舞台照明という分野には①学生、②裏方、③営業マン、という三種類の関わりを持っていた(持っている)ということになります。

当たり前のことをあえて明記しますが、舞台において舞台照明の存在意義とは、舞台上を明るくすることにあります。(相対的に、暗くすることも存在意義と言えます。)

舞台照明は太陽のような存在です。

朝、太陽が昇ってくると次第に空が明るくなり始めます。

太陽が出てきた昼間は明るく、天気が悪い時にはどんよりとした空模様になります。

夕方、太陽が沈んでいくと空はオレンジ色と青色の美しい色合いになり、太陽が沈む頃には街灯が点き始め、夜になると街は月明りに照らされ、家の窓からは暖かい光がこぼれています。

こうして考えると、私たちの生活にとって太陽はかけがえのない存在なのだ、と改めて気付くことができます。

この太陽の動きを舞台上に再現するのが、舞台照明の仕事です。

舞台上を明るく照らし、時には暗くし、舞台上で起こるドラマに寄り添うのが舞台照明であると言えます。

残念ながら、太陽の熱くない部分を切り取って地球上に持ってくる技術を人類はまだ手にしていないため、スポットライトが活躍するのです。

スポットライトと一口に言っても、様々な特徴を持ったスポットライトがこの世には存在しており、それらを使い分けることで舞台照明のプランは成り立っています。

人間と同じように、スポットライトにも得意なことと不得意なことがあり、彼らの個性を最大限に引き出し、使っていく中で裏方としてのスキルが熟練されていくのです。

さて、丸茂電機の話になります。

当社は、このスポットライトを製造・販売する「舞台照明器具メーカーとしての丸茂電機」という姿の他に、劇場に舞台照明設備を設置する「建設工事業としての丸茂電機」という側面があり、さらに設備の保守・点検・修繕までを行う会社です。

建設工事業としての仕事は、一言で言うと「劇場を創る仕事」です。

劇場のどこに何台スポットライトを設置するか、そのために何個コンセントを設置するか、電源線をどのように配線するか・・・、そのような劇場における舞台照明設備の「基礎」とも言える部分を設計・施工する仕事を行っています。

私は、裏方時代には舞台照明を「エンタメ業界」という括りで考えていましたが、営業マンとしては「建設業界」という括りの方に近いと感じます。

この捉え方の違いが、非常に面白く感じます。

同じ舞台照明を取り扱っているとはいえ、切り口が異なることで日々驚きの連続です。

ずっと続けてきたことが、実は一つの側面しか知らなかったということに気付き、そして新たな側面を発見することでより理解が深まるという、簡単に言うとアハ体験のようなことです。

営業マンとして、このアハ体験の感覚を大切に、私がこれまで関わってきた中で見つけてきた舞台照明の様々な視点を用いて、お客様にご提案していけるように努力して参ります!

まだまだ書きたりませんので、またの機会にこちらでお目にかかれれば幸いです。

それでは、今後ともよろしくお願い申し上げます。

営業部営業課 勝

あいさつあれこれ

2018年4月11日

今日も一日元気よく、おはようございます!2017年度入社の営業部営業課 竹内です。

入社から早くも一年が経ちました。まだまだ先輩方から学ぶ毎日です。
舞台照明についてはもちろん、社会人としてのマナーなど、
いろいろなことを教えてもらっています。覚えることは多いですが、
頑張って吸収していきたいと思います!

いろいろ教えてもらっている中でも、コミュニケーションのはじめの一歩である
挨拶は一番大切です!
という訳で、本日は挨拶についての最近知った雑学を紹介させていただきます。
 

挨拶といっても、会う時間帯によって言葉が使い分けられていきます。
朝は「おはよう」、昼間は「こんにちは」、夜なら「こんばんは」と声をかけますよね。
この中で一つだけ敬語がつけられるものがあります。
そう「おはようございます」でございます!
「こんにちは」と「こんばんは」は略さずに言うと
「今日はごきげんよう」や「今晩はいい夜ですね」となり、
その頭を取って簡略化したものが現在の昼と夜の挨拶になっているそうです。

朝の挨拶である「おはよう」に関しては、そのほかの時間の挨拶とは由来が異なるので敬語の形をとることができます。
 
実は、この普段何気なく使っている朝の挨拶「おはようございます」、
もとをたどると歌舞伎の世界の言葉なのです!

歌舞伎の役者さんは衣装や化粧に時間がかかるため、早くに楽屋入りします。
それを裏方さんが「お早いお着きでございます」と挨拶するのが慣例となって行き、
それが転じて「おはようございます」というように変化していったようです。
そして、これは時間にかかわらず、公演の前であれば朝でも夜でも「おはようございます」と言っていたそうです。
その影響か放送業界や音楽業界も時間に左右されず1日の1番はじめの挨拶には
「おはようございます」を使います。
 

ほかにも歌舞伎が由来になっている言葉はたくさんありますが、朝の挨拶までそうだったとは根強い人気を感じます。
今では生活の一部として、朝の挨拶となっていますが、そんな説があることを頭の片隅に置いて頂ければ幸いです。
最後まで読んで下さった方に、
「おはようございます」
から始まる気持ちのいい毎日がありますように!!

手締め

2017年12月22日

こんにちは!初めまして、2017年度入社 営業課絹村です。

 

入社してあっという間に8ヶ月が経ちました。
職場の雰囲気にも慣れ、1つ1つ仕事を覚えていく毎日です。

 

さて、忘年会や新年会、この時期にあちらこちらで聞かれる宴会を締めくくる手拍子ですが、
実は舞台の世界から来ています。
そこで、今回は日本の風習の一つである「手締め」の意味や由来をご紹介したいと思います!

手締めは大きく分けて3つの種類があります。
“三本締め” “一本締め” “一丁締め” です。

 

手締めは地方により掛け声が異なります。大きく分けて「江戸締め」「大阪締め」の2種類があり、

 

今日はみなさんよくご存知の「江戸締め」を説明したいと思います。

 

【一本締め】

「いよーっ!」

「パパパン、パパパン、パパパン、パン!」

 

【三本締め】

「いよーっ!」

「パパパン、パパパン、パパパン、パン!」

「よっ!」

「パパパン、パパパン、パパパン、パン!」

「もう一丁!」

「パパパン、パパパン、パパパン、パン!」

 

このように10回の手拍子を1回行うのが “一本締め” 、3回繰り返すのが “三本締め” です。
この手拍子には意味があり、3拍が3回で「九」になり、
最後に1拍加えると、「九」に点が打たれて「丸」になるのです。

これには、『すべてが丸く収まる』という意味があるようです。
ちなみに「いよーっ!」という掛け声は「祝おう!」が転じたものとされています。

 

舞台の終演時に役者さんが上手・下手・センターのお客様に向かってそれぞれ挨拶しますよね。
これを「三方礼」といい、”三本締め”の由来になっているそうです。
3回繰り返すのには意味があり、1回目は主催者、2回目は来客の皆様、3回目は全体と出席できなかった人
に向けたものだと言われています。

最後に「いよーっ!」「パン!」と一発で終わるやり方もありますよね。
地域によっては”(江戸)一本締め”と呼ぶので紛らわしいのですが、これが “一丁締め” です。
この”一丁締め”は居酒屋など、他のお客さんに迷惑がかかりそうな場所で行うのに向いています。

 

それぞれの意味と違い、おわかりいただけましたでしょうか?

 

それでは「お手を拝借!」今年一年を私ども丸茂電機とともにまあるく締めくくりましょう!

 

「いよーっ!」「パパパン、パパパン、パパパン、パン!」

ありがとうございました!
みなさんどうぞよいお年をお迎えください!

 

営業部営業課 絹村朋哉

舞台照明関連書籍ご紹介 『現代照明の足跡~歴史を創った7人の巨匠たち~』

2017年12月8日

皆さま、こんにちは。

営業課の大竹です!

丸茂電機に勤務し早○○年。趣味は観劇と本を読むことです。

こちらのブログを読んでくださっている皆さまは
舞台照明に関心がある方々なのではないかと思ってはおりますが、
読書に関心はおありでしょうか?

私はつい先日まで社史のコーナーを書いていた関係で日本舞台照明史に
とても興味をもちました。

色々調べてみて歴史そのものも大変面白かったのですが、
その歴史はその時代に生きた人たちの手によって築いてきたものだとはっきりと
認識することとなりました。

今度はその方々の人生や思いについて知ってみたい。。。
そう思っていた矢先まさにその日本舞台照明史を築き先駆して
いらっしゃった方々の本を手に取ることが出来たのです。

『現代照明の足跡~歴史を創った7人の巨匠たち~』(日本照明家協会様刊行)

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もう、お手にとって読まれた方もいらっしゃるかもしれませんね。
現在の日本には数多くの劇場があり、素晴らしい舞台作品が日々上演されています。

日本の舞台照明は1900年頃から「電気」が導入されたことによって
大きな変化が始まったのですが、とりわけ第二次世界大戦前後は日本の舞台照明は
現代照明に向け、めざましい発展を遂げた時代でした。

この本を読んでいると発達・発展の度合いが大きい分、幾多の困難や壁があったのだろうということが良くわかります。
この本では時代の波、変化の渦の中、舞台照明を開拓し、道を切り開いてこられた
遠山静雄氏、小川昇氏、松崎國雄氏、篠木佐夫氏、穴澤喜美男氏、大庭三郎氏、
相馬清恒氏という7人の照明家の方々に“スポットライト”を当て、
お仕事の足跡や日本舞台照明のあり方の変遷、そして今も色あせることない照明哲学などが丁寧につづられています。
当時の仕込図やキューシートなど貴重な資料の掲載もありとても読み応えのある一冊です。

舞台照明のことは詳しく知らない方でも、7人の照明家の方の仕事に対する美学など
普遍的な内容を多く含んでいますので、一人の人生を追いかけるような読み方もできて
とても面白かったです。

 

ご購入は日本照明家協会様HPで可能です。

 

ご興味のある方にはぜひご一読を!

 

大竹妙佳

HISTORY 10 【最終回】日本の文化芸術振興と共に

2017年3月3日

皆さま、本日も当ブログをご覧くださいましてありがとうございます。

本日3月3日は当社の創立記念の日となります!

本年もまたこの日を無事に迎えられましたのも皆さまのお力あってのこと。
私共は創立より日本の文化芸術発展の一端を担わせていただいておりますが
なお一層、励んでまいりたいと存じます。

第1話 は コチラ
第2話 は コチラ
第3話 は コチラ
第4話 は コチラ
第5話 は コチラ
第6話 は コチラ
第7話 は コチラ
第8話 は コチラ
第9話 は コチラ

 

さて、皆さまに当社のことを知っていただき、親しみを持っていただければ
と掲載してまいりました社史ですが、今回で最終回となります。
全10回のご愛読ありがとうございました。
今回も最後までごゆっくりお楽しみください。

 

『昭和30年に高校演劇指導者講習会が開かれることになった。
これを発端としてその後全国各地の高等学校では“文化活動としての演劇”
が盛んになっていった。

大会やコンクールが各地方で開催されるようになると講堂や体育館にも
舞台照明を設備するという学校が年々増えてきた。

また、ホテルや旅館も宿泊だけでなく宴会場などの多様な機能を
兼ねはじめ、演出照明設備が必要となってきた。

昭和40年代は万国博覧会の開催に伴うパビリオンの建設や、
公共事業が盛んとなり全国各地で劇場などの文化施設
の建設がなされるようになった。

テレビ放送は開始されて以降目覚ましい進化を続け演出照明の需要はますます
高まっていた。

こうしたさまざまな要素が折り重なり調光装置を始め、舞台照明設備の技術
は更なる進化を遂げていった。
昭和50年代後半に入り文化活動がますます勢いを増してくると
全国あらゆる都市で文化施設の建設をに拍車がかかっていった。

当社は会館の規模の大小を問わず、その施設、目的にあわせ
最新技術を投入した記憶付の照明操作卓から手動の照明操作卓まで納入していった。

その流れの中、東京大田区の機器開発及び電子関係の業務を担っていた
“東京工場”の敷地を京浜急行電鉄に用地提供するのを機に新たに昭和61年(1986年)
実験スタジオや照明器具からソフトウエアの開発に至るまでの設備を
兼ね備えた“技術センター”を新築することとなった。
また第二次世界大戦の東京大空襲でも奇跡的に焼けることなく残っていた
本社社屋は老朽化がすすみ創立70周年を機に平成2年(1990年)新社屋に
建替えとなり現在に至っている。

白熱電球の発明からわずか139年あまり。
現在、照明器具の光源としてはLEDの採用が目立つようになり、
調光もデジタル信号を使用したシステムを採用するようになっている。

ハード(舞台周辺機器)の進化がソフト(上演作品)の多様化を産み
またソフトの多様化がハードの進化を促して日本の文化芸術は発展を
遂げてきた。

当社は今後も文化芸術を愛し感動する心を大切にしながら次世代の
舞台、テレビジョン照明設備の発達を促しながら社会貢献をしてゆきたいと
考えている。』

HISTORY 9

2016年10月1日

皆さま、いつも当ブログにお越しくださいましてありがとうございます。
ゆっくりペースで進めております、当社の成り立ちを皆さまにご紹介
させていただくこのシリーズも、今回で9回目。

今日は新型調光器をテレビスタジオを皮切りに日本の名だたる劇場へ
納入してゆく舞台照明革新期のお話です。

第1話 は コチラ
第2話 は コチラ
第3話 は コチラ
第4話 は コチラ
第5話 は コチラ
第6話 は コチラ
第7話 は コチラ
第8話 は コチラ

をご覧くださいね。

では、スタートです!

日本経済が復興し、国民の生活水準の向上に伴いテレビという大衆的映像文化
が目覚ましい発展を遂げる時代がやってくる。

昭和26年テレビジョン実験放送が実現すると当社でもアメリカやヨーロッパの文献
を頼りにテレビスタジオ用の照明の研究が開始された。
NHKでは昭和29年に本放送を始めるに当たり、国内産の機材でテレビスタジオ
を作ろうという機運が高まり、照明設備については当社で担当することになった。
舞台照明で培った技術を基に、実験放送開始からほどなくして取り組み始めた
スタジオ照明の研究成果を存分に発揮することができた。

以後、NHKに次いで開局するテレビスタジオ照明においても当社は業務を通じ
貢献してゆくこととなった。

劇場界においても丁度その時期、現代科学と技術の粋を集めた劇場建設の計画が
立ち上がり日生劇場の建設が始まった。
日生劇場は外国の一流劇場で当時採用されていたサイリスタ方式(シリコン製の
半導体素子により大電流を制御する整流器を利用した調光方式)の調光装置
を取り入れた。

多数の場面を事前にセット出来るこの方式は照明の変化を瞬時に行えるなどまさに
最先端の技術が導入された設備であった。

技術部門の責任者であった吉井澄雄氏(現 公益社団法人日本照明家協会名誉会長)は
著書『新劇と私の数十年』の中で次のように記している。
「当時の劇場、ホールの貧しい照明設備では、とても自分が考えているような照明は実現
できそうになく、また、それを改善する力もなく、
その方途もすぐにみつかりそうもなかったからである。 (中略)
その頃のテレビ局はアメリカの技術に追いつくために、最新のエレクトロニクスの
情報を取り込むのに大量で、その中には欧米の新しい技術資料もかなりあって、
門前の小僧よろしく自分の糧にしてしまった私は、こうした照明の設備や器具を何とか
劇場に採用できないものかと夢見ていたのである。」

サイリスタ方式の調光装置は後に建設された国立劇場や解体・建設される帝国劇場など、
ほとんどの劇場に採用されることとなる。

明治年間から建設の話が持ち上がりながらも実現に至っていなかった国立劇場建設、
明治44年の開場以来、日本文化の殿堂であった帝国劇場の解体・建設は同時期の
出来事である。当社にとっては喜びの多い仕事であり責任の重大さに身が引き締まる
思いであったと当時の関係者は話している。

昭和42年にはこれからの時代を担う若い世代の人々に、舞台照明の知識の向上
や認知の拡大の助けになるようにと“丸茂ライティングニュース”を発刊。
(バックナンバーはコチラ)舞台照明にまつわる様々な情報や知識のわかり易い
解説は学校演劇に携わる人やアマチュア演劇に携わる人々などにも広く読まれ、
好評を博していた。

このように、実際の建設業務だけでなく舞台照明を一般に浸透させようと
現在に至るまで広く活動を行っている。

 

HISTORY 8

2016年6月2日

皆さん、こんにちは!

いつも当ブログをお読みくださいましてありがとうございます。

前回までは創業から第二次世界大戦を経て、すべてを失った弊社が、

技術者の記憶、焼け残った劇場の設備をスケッチして準備をし、焼け残った材料や

物資をはるばる山梨県の小屋に運びこみ

再起への新たな一歩を踏み出したところまでをお読みいただきました。

第1話 は コチラ

第2話 は コチラ

第3話 は コチラ

第4話 は コチラ

第5話 は コチラ

第6話 は コチラ

第7話 は コチラ

そして戦後復興の第8話この記事です。

 

終戦より数年を経た昭和24年、

戦時中の空襲により焼失していた歌舞伎座再建の話が立ち上がり

吉田五十八氏の設計の元、事業が開始された。

当社も舞台照明設備を担当することになったがこの第四期歌舞伎座が開場する

昭和26年までの間に朝鮮動乱が勃発し、たちまちのうちに資材は高騰、

材料不足で市場は混乱を極めることとなった。

工事関係の会社でも中には倒産する会社もあり、夜間は電線泥棒などにも

気をつけねばならなかった。

この時の歌舞伎座の設備は負荷回路254回路で、調光回路20A120回路、

30A20回路、40A20回路。

歌舞伎座操作把手盤

 

 

 

 

 

 

 

 

(写真は第四期歌舞伎座の調光設備の一部です。)

この設備仕様で平成22年第五期歌舞伎座(現歌舞伎座)リニューアル開始までは

ほぼそのままの仕様で使われた。

昭和26年1月1日杮落しの日をなんとか迎えられると当社の再出発も軌道に乗ったと

いえるようになった。

昭和26年には三越劇場の照明設備を施工した。

当時はまだまだ劇場がない時代。

しかもデパートの文化事業の一環として本格的な劇場が出来たのは

三越劇場が初めてでこの劇場建設は世間の評判を呼ぶこととなり、現在に至るまで

新劇を中心に多くの公演が行われている。

昭和27年4月にはサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が

発効され、連合国の日本占領に終止符が打たれた。

この昭和20年代後半から日本全国の劇場復興や新設が進み当社製品が全国各地の

ホールへと納品されてゆくこととなる。

その流れを追うように弊社もその土地に根差した仕事をと日本各地域に営業所を開設、

各地でのきめ細やかな対応を現在も継続している。

さらに、昭和31年、日本は国連復帰。この国際社会への復帰は経済の高度成長を

促し、我々の生活水準、生活内容に大きな変革をもたらした。

それと同時に文化の国際化も進んでいった。

昭和32年にはイタリアオペラが来日した。

しかし、当時の日本には本格的なオペラハウスがなく、この来日公演は東京宝塚劇場や

宝塚大劇場にて上演された。

都民からは「東京に本格的なオペラハウスを」との声が立ち上がり恩賜上野公園内に

東京文化会館の建設を計画、前川設計事務所の設計で建設が開始された。

舞台照明担当として参加した当社では西洋のオペラやバレエのキューの多さ、

早い変化に対応すべくU型調光変圧器の操作系の全てを弱電操作で行う

UMS型調光装置を開発し納入した。負荷回路数も480回路と当時としては非常に多く

回路が整備されたギャラリーがあり「効果的な明り作りができる」と評判を呼んだ。

以後会館関係者の尽力もあり今でも東京文化会館は世界有数のオペラハウスといわれている。

このUMS型調光装置は後に建設された神奈川県立音楽堂などにも採用される他、

この頃前後して開発された8吋のフラノコンベックスレンズを使用したC-8型スポットライトは以後も同様のスポットライトの代名詞となるほど流通したスポットライトととなった。

 

HISTORY7

2016年3月15日

皆さん、こんにちは!

いつも当ブログをお読みくださいましてありがとうございます。

驚くべきことに、こちらのブログ今年の初更新です。。。

早いもので、社史の連載も開始から1年ほどが経ちました。

本日は終戦直後の弊社を皆さんと一緒にたどってみたいと思います。

1話 は コチラ

2話 は コチラ

3話 は コチラ

4話 は コチラ

5話 は コチラ

6話 は コチラ

この記事は第7話です。

昭和19年~20年にかけて激化した戦況、そしてほどなく迎えることとなった終戦の日。

多くの都市は度重なる空襲により廃墟となったがその中から

人々は再び未来を見据えて立ち上がろうとしていた。

当社のことを話せば、山梨県の(現在の竜王町)に小屋を借入れ、

かろうじて焼失を免れた工作機械を持ち込んでの工場再開となった。

一切の設計資料が焼失し手元に何も残らない中、業務の完全再開に備え

それぞれの技術者が自らの記憶をたどるほか、焼け残った劇場を訪ねては

劇場の照明設備のスケッチをかさねていった。

それは、日本の芸術、文化の復興・復旧を一心に目指す当時の社員の

心意気の表れだったのではなかろうか。

当社にとって舞台照明の仕事のスタートは昭和22年に開始した新橋演舞場の

復興工事である。

戦後、物資欠乏の頃ではあるが本格的な仕事であり、

焼け残ったもの、工夫すれば使用できるもの等を探しては甲府駅までは貨車、

駅から小屋まではリヤカーで運び込み、

工具も十分とは言えない中製作を進めていったのだった。

現場(劇場現地)での工事の段となったが、

まだまだ広がる焼野原の東京では宿泊場所や食料調達にも事欠いていたので

布団を新橋演舞場に持ち込んで泊まり込みで仕事を行ってゆくこととなった。

そんな必死の作業の合間にもしばしば起こる停電や駐留軍や警察官による職務質問など

今からでは想像できない過酷な条件の中、多くの苦労を重ねつつも、

社員一同、一丸となりこの業務にすべてを注ぎ込み

昭和23年3月新橋演舞場は無事に再開場の日を迎えることとなった。

設備内容は、回路数138回路となっており、調光変圧器は把手型30Aのもの132本。

この折納入した操作把手盤は昭和56年の取り壊しまで使用された。

当時の照明担当者の方は撤去に際し「それはもったいない博物館に保存しなければ」

との海外の大学教授の声を聞き「うれしかったね。とにかく、再建当時は最新の設備だった。

国産だけど大事に使ってきた。」と語っていたという。

 

HISTORY  6

2015年11月26日

 皆さん、こんにちは。

営業部の大竹です!

いつも当ブログをお読みくださいましてありがとうございます。

こちらのHISTORYはただ今連作中となっております!

今までの記事をまず、ご紹介いたしますね!

1話 は コチラ

2話 は コチラ

3話 は コチラ

4話 は コチラ

5話 は コチラ

6話 は この記事です。

 

さて、今回は、日本を今の方向へ大きく大転換させるきっかけとなった

『第二次世界大戦』中の丸茂電機について触れてゆきたいと思います。

折しも本年は戦後70年を数える節目の年であり、当時の劇場界を振り返りながら

弊社の第二次世界大戦についてお話できればと思います。

 

【 第二次世界大戦 】

昭和10(1935)から昭和15(1940)の間は

劇場の新設や改修の業務も多く、順調であり弊社社員も50名を超えての大所帯となりつつあった。

製品的にも、各劇場からもその優秀性を認められていたU型調光器だけでなく、

現在も使用されているBC(ボーダーライト)T-1(スポットライト)などの原型も

製品として多く出荷されるようになっており、あらゆる面で充実していた時期であった。

 

1612月太平洋戦争が始まると国民の政治、経済はもちろん、思想、

私生活に渡って今までの生活から戦争中心の生活への変化を余儀なくされることとなった。

当社は当時NHKが世田谷区の砧に作ったテレビジョン試験用の照明設備などを手掛けていたが

それだけではなく、各種訓練用のパノラマに使用する照明器具の製作や抵抗器の製作も請け負うこととなった。

戦時中とはいえ、まだ多摩川あたりはのどかな田園風景が多くみられたことから

砧へ打合せに向かう道などはピクニックのような気持ちで歩ける日もあったという。

しかし、戦況が次第に激しくなってくると都市部の空襲も日を追って多くなっていった。

昭和1911月以降東京は106回ほどの空襲を受けたといわれている。

それに伴い強制疎開などが行われ国民唯一の娯楽期間であった劇場や映画館も閉鎖、軍需工場となった。

そのため、保守業務でわずかに続いていた舞台照明の仕事さえもとうとう全くなくなってしまった。

そればかりか、戦争の激化に伴い所員は次々と召集され、

大陸や南方戦線へと旅立つこととなり、わずか数名の所員を残すばかりとなった。

そしてついに、昭和20年度重なる東京への空襲の結果、会社施設はすべて灰燼と化し、

当社の機能は完全に停止してしまったのだった。

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